雨は止んでいた。

 ルージェンはベッドから出て、姿見に自分の姿を映した。宿の寝衣を着ていたのを、アンシアが縫ってくれたドレスを旅の荷物から取り出して着て見た。自分の瞳と同じ色の絹のドレス。細い帯を締めると、胸から腰にかけての柔らかい曲線が際立った。部屋は暖炉の火で暖かく、上に羽織る必要はなかった。

 アザンは城に帰るのだ。最後の別れになるかもしれないアザンに、女としての自分を見てもらいたい、そう思った。

部屋の戸を叩く音がした。「アザンです」

 「入れ」

 ルージェンは気恥ずかしくて、急いでベッドにもぐり込んだ。

 雨具を外しながら笑顔でアザンが言った。「雨が上がりましたね。漁師の子供達が坂の所で遊んでいましたよ。それから、今年は真珠がよく採れるそうです」

 ルージェンはアザンが手に持つ袋に呆れて言った。「アザン、また何か買い込んできたな。仕方がない奴だ」

「あれ、でも」アザンはテーブルの上にあった果物や菓子が空になった皿を見て言った。「随分召し上がられたんですね。大丈夫ですか?」

 「馬鹿。世話になった宿の女にやったんだ」

 「ルージェン、貴方は召し上がったんですか」

 「いや」

 「そんな、それなら僕の分も残して置いてくれたらいいのに」

 「意地汚い奴。ところで、お前、臭いぞ。何を買って来たんだ」

 「魔女の家で薬草と、それから、貴方の口に合う食材を仕入れて来ました」

 「その、臭いのが?」

 「イカやタコをご存知ですか」

 「図鑑で見たことがある。海に住む生物だろう」

 「とても美味いのです。西カリムならではの料理を宿の主人に作って貰ってきます」

 「お前が食べろ」

 「ルージェン、一口でも食べたら、魔女が教えてくれた魔術師達の居場所を教えてさし上げましょう」

 「お前は・・・」

 「では、僕は宿の主人に特別の料理を頼んできます」

 小言を言う前にアザンは、買ってきた魚類を手にして階段を降りて行った。

  アザンが宿の主人に焼いてもらった料理を手にして部屋に入った時、ルージェンはテーブルに向かって書きものをしていた。アザンが部屋のドアを後手で閉めた後のしばしの沈黙がルージェンをさらに緊張させた。突然女の服など着て、彼はどう思うだろうか。今日で別れるのだから、貴方に見て欲しかったとも言えない。自分の行動が滑稽なものに思えてきて、さらに体は固くなる。

 砂色の髪にブルーグレーのドレスを着たルージェンは、母の王妃パルミを思いださせる身体付きだった。髪は短くても、太い首筋から鎖骨が目立つ肩幅の広い線は、豊かな胸の曲線へとつながっていた。

 アザンは彼女の傍へ行って、ルージェンが書いている書面の邪魔にならないように、皿を二つとナイフとフォークを置いて言った。

 「さあ、ルージェン、一口食べないと、魔術師の居場所は教えられませんよ」

 緊張していたルージェンは、思わずカッとなって言った。

 「アザン、そこへ座れ、お前は最近随分生意気になったな」

 「失礼ながら、王子、女性の格好をされているのであれば、相応の言葉使いをされた方がよろしかろうと存知上げますが。美しいルージェン、貴方にそんな言葉使いは似合いません。母君のパルミ様ならきっと、『まあ、そんな言葉、貴方の人格を疑いますよ』と仰ることでしょう」

 アザンはパルミの口ぶりを上手く真似て言うし、その通りだとルージェンも思う。ドレスを着ていても、言葉使いは男、しかもドレスの下は、男物のブーツを履いているとは、ちぐはぐ過ぎる。

 「ではアザン、貴方もそこへ座りなさい」アザンは二人がけのテーブルの対面に座った。「どうぞ、お前も食べて」ルージェンは大皿から少しだけ小皿に取り分けると、残りの大皿をアザンの方へ返した。皿の上の物は、小麦粉を固めて焼いたものの中に、図鑑で見た海の生物の残骸が入っている。ルージェンは、フォークで赤い吸盤がいくつも付いた、タコと、白く、ぐにゃぐにゃしたイカを取り上げて言った。

 「こんなグロテスクな物を食べるのですか」

 「ルージェン、異国へ行かれると、おそらく、もっと変わった物を出されるかもしれません。西カリムの地方によっては、魚を生で食べるのだから」

 「なんて野蛮な」

 「動物の死骸を食べること自体、野蛮な行為ではありませんか」

 そう言って先に食べ出すアザンを見て、ルージェンも仕方なくフォークから口へ運んでみた。ぐにゃぐにゃしたものを咀嚼してみると、「・・・美味しい」

 アザンが笑った。窓の外は雨も上がって、西カリムの海が午後の日差しに反射して波打っていた。

 「バルモと一緒に美味しいものを食べる時が一番幸せ」――くいしんぼうのアンシア、貴方の気持ちが少し理解できたわ。好きな人と二人きりで食べる時間がこんなに満たされるものとは知らなかった。内心、ルージェンはそう思った。

 アザンが言った。

 「賢者の森が北方の暗い森の近くにあります。暗い森の手前にある、この国の最北端の港街、ナイジリのギザの宿で待てば、魔術師達から交信がくるそうです」

 「私がギザの宿に着いたとどうしてわかるの?」

 「千里眼の魔術師がいるから、着けばわかるらしいです」

 「私達は見張られているの?」

 「そんな、向こうはそれ程私達のことを意識していないでしょう。現在地の西カリム海側から北方を目指すには、冷たい氷河からの風が吹くし、宿場町は殆どない。だから、まず、東カリナ海側へ出ましょう。温暖な海流の風が吹くし、東カリナ海側はご存知のように、商人や貿易商の金持ち達の家が並ぶ地域だ。おまけにナイジリまでは、モルドーの街から整備された街道が一本、北へと走っている」

 ルージェンは、胸のペンダントを外すと、書面の上に蝋燭の蝋を垂らした。ペンダントの裏側は王印になっていて、蝋の上から王印を押した。その後、彼女はアザンに、ペンダントの表側のロケットになっている部分を見せた。ロケットの中には、少年の肖像画が入っていた。幼い少年は、髪の色はルージェンと同じだが、顔立ちは余り似ていない。 「これは、私の双子の兄のルージェン。父に似て、生まれつき身体の弱い人でした。薬師達は、血族結婚のせいで、王族の男子には、持病を持つ者が多いのだと言っていました。外に出て、運動が出来ない兄に代わって王子の格好をして走り廻っていたのは私の希望です。私は、母や妹達や侍女みたいに、ドレスや装身具には興味がなくて、剣や馬で動き回る方が好きだった。兄のルージェンが死んだのは7歳の時。女帝の前例はないし、直系の王子が死んだことは隠されることになり、死んだのは双子の妹パーシア、つまり私が兄のルージェンになりました。私は兄が死んでから、兄の代わりに生きてきました。私は男になりたかった。でも、私が幼い頃は大目にみられた行為も、陸軍学校の生徒達と同年齢にもなると、彼らにどう接していいのか、女の私の方から壁を作っていたから、うちとけて、上手く指導していくのは、難しかった。だから、表面では、王子の私を敬っていても、陰ではまともな男ではないとか言われていた。私自身が男に対して壁を作っていたのだから、彼らの心を掴める筈はなかった」

 アザンは無言でルージェンにペンダントを返した。

 「アザン、この書簡を持って、城へ帰る準備をするように」

 書面を受け取ったアザンは声を上げて読み上げた。

『この者アザンは、道案内として、また、私の命を助けてくれた。よって、この者アザンに、金100万ダラッタ与える。エルマー国王子 ルージェン』でも、僕は、金100万ダラッタより、花嫁がいいな。貴方みたいによく怒る花嫁がいい」

 「最近のお前は私をからかってばかり」

 「失礼ですが、僕は今後貴方からお給金を戴く気はありません」そう言ってアザンは、ルージェンが渡した書面を彼女の指元へ差し戻した。

 「お前は僧院に必要な人材だから、城へ帰りなさい」

 「僕はもう、貴方の従者ではありません。貴方のご命令を聞くつもりはありません」続けて彼は言った。「今まで貴方を道案内してみて、おそらく貴方一人で原野や森を渡るのは無理でしょう。ナイジリから暗い森へは街道はありません。貴方一人では、沼地にブルトーと落ちるだろうし、磁石が狂えば迷子になる。嵐の中で高熱が出て、行き倒れるかもしれません」

 「ナイジリで、道案内の者を探す」

 「何故、僕を避けるのですか」

 これ以上貴方といると、死ぬ覚悟がなくなる。貴方とずっと、こうしていたいのに。そんな娘としての気持ちはアザンに告白出来なかった。

 無言のルージェンにアザンが質問した。

 「ルージェン、貴方に一つ確認したいことがあります。貴方は嵐の夜明けに、僕と別れる時、僕が死んだら生きていたくないと言った。・・・熱にうかされ戯言だったのでしょうか」

 彼女は首を振った。

 「貴方が居ない世界は、生きていたくない。だから、アザン、今度は私を信じて下さい。私は貴方がいるこの生者の世界に必ず帰ってきます。どうか、いい子でお留守番していて」

 そう言うと、ルージェンは泣きそうな笑みを作った。「アザン、貴方と過ごした日々はとても幸せでした。この思い出を胸に私は死者の国へ行きます」

 「勝手に僕を思い出にしないで下さい。僕は、貴方の前で、生きて、こうして悲しむことが出来る人間です」

 アザンは自分の頭半分下にあるルージェンの髪にそっと触れた。

 「こうして触れ合う時の胸のときめきや、喜びは、死んだら味わえないものでしょう」

 「無礼者!」と王子のルージェンなら張り飛ばす処だが、ドレスを着ていて、しかも、ルージェン自身が、アザンの首元に抱きつきたい衝動にかられた。

 アザンは彼女が逃げないように、ゆっくり、優しく、その両肩に掌を置いた。

――彼女は僕のもの・・・。

 「アザン、私は、旅に出る前、貞潔の請願をしたのです」震える声でルージェンが」言った。

 「何ですか・・・貞潔の請願って」

 

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