僧院に着くと、アザリアの館の前では、午後から織物機に向かう日課を済ませて帰って来たサミュンと母のエミル夫人が、館の玄関前の木立の傍で、従僕が木に登って木の実を採るのを見ていた。
アザンは、シェインから渡されて、シャリム語を尼僧が翻訳してくれたメモを取り出した。今日訪問した人達の観察項目の結果を書いた用紙をルージェンに見せて、「これをシェイン先生に届けたら、仕事は終わりです」と説明しながら荷馬車を降りた。
サミュンがルージェンを認めると、声を掛けた。「ルージェン、話があるのよ」
ルージェンの灰色がかった青い瞳がアザンを優しく見た。 「今日は世話になった。アザン、楽しかった」 そう言って、サミュンとエミルの方へ向かった。
エミルは、娘のサミュンと同じ、柔らかい金色の髪をしていた。亡きアザリア王女の侍女だったと、マージルが言っていた。
アザンが僧院の階段を上がって中へ入ると、マージルとロリスが話す声がした。
「それで、西カリムに住むその魔女は確かに、魔術師達と交信できる力を持つのね」
「ええ、ロリス様、その魔女が集中して、自分の思念を望む相手に届ける力は本物です。でも、彼女には、相手の思念を読み取る力はありません。だから、魔術師達がその魔女に返事を送らないと、受け取ることはできないわけですよ」
二人は薬を煎じたり、調合する小さな厨房で、細かく砕いた乾燥した薬草をさらにすり潰しながら話をしている。アザンは薬袋から取り出した物を所定の戸棚の位置に返しながら二人の話を聞いた。
「マージル、今度その魔女に西カリムの岩塩を注文する時、魔術師達に癒しの技術のことでルージェン王子が連絡を取りたがっていることを伝えて下さいね」
「はい、ロリス様、岩塩の他に、乾燥した藻も残り少ないから、今晩その魔女にその旨手紙を書きますよ」
ルージェンが木の実が一杯入った籠を持って入って来た。 「アザン、私は着替えたらすぐ城へ帰る。お前も一緒に帰るか」
「私はシェイン先生に報告しないといけないので、後ほど参ります」
「わかった。僧長、エミル夫人からです」ルージェンはロリスとマージルが座るテーブルの上に籠を置くと、急いで階段を上って行った。
「ロリス様、聞きたいことがあるのですが」
「なあに、アザン」 ロリスがアザンに笑顔を向けると、マージルは二人ですり潰した粉を集めて、「ロリス様、これを瓶に入れてきますね」と、立ち上がった。 マージルは仕事が終わると、街へ出て、居酒屋で食事を採ることにしていた。気ままなマージルらしいが、モルドーの街にすっかり馴染んで、最近は彼女を夕食に招待してくれる家庭もあるらしい。
「マージル、お勤めご苦労様。手紙の件、よろしく頼みますね」
尼僧達が食事の用意をする厨から、夕食の匂いが漂ってくる。
尼僧の一人が野菜を運んで来て、テーブルの上に置いて行った。ロリスの指示で、尼僧は木の実が入った籠を持ち去った。野菜のへたを取りだしたロリスの隣にアザンも座って、手伝いながら話しを進めた。
「ロリス様、死者の国について聞きたいのでございます。5年前、亡きアザリア王女様と共に死者の国へ旅立ったのはロリス様だと聞いております」
「そうよ、アザン。私とアザリア王女が乳兄弟だったことは知っているかしら?アザリアの乳母は私の母だったの」
「その時はどのようにして魔術師達と連絡を取ったのでございますか」
「その頃はまだ城にも僧院にも、魔術師が出入りしていたの。ルゴス卿と魔術師の間で意見の相違があってから、この国の魔術師達は姿を隠したわ。北方の森の方に住んでいるとは聞いているけれど」
「ルゴス卿と何故・・・」
「それは私の口から話すことは出来ません、アザン」
「何故、何故・・・魔術師達は死者の国へ行かなければ癒しの技術を授けてくれないのですか?国の民のためになる技なら、積極的に教えてくれてもいいのに」
「そうね、アザン。考えてみて。例えば癒しの技術を、金儲けに使う人に授けることは出来ないわ。癒しの技術を授かる事は、誰にでも与えられているのです。ただ、その人間が、自分の命や、愛する家族、生活の全てを捨てるだけの真剣な覚悟があれば。癒しの技術を身につけるには、現世の欲に捉われない人間性が試されます」
「ロリス僧長様、アザリア王女は何故、死者の国から帰って来られなかったのですか」
その時鎖帷子を身につけたルージェンが階段を駆け下りて来た。
「そんなに急いでルージェン、城で何かあったのですか」
ロリスが声をかけると、ル-ジェンが笑った。
「サミュンに諭されたのです。責任を果たして下さいと」
ロリスも安心した微笑みを浮かべてル-ジェンを見送った。
「あの子はアザリアに似ている」
「王子がですか?」
「そう、アザリアは病む人達への慈愛は深かったけれど、気難しい処もあった。わが国を強くするために、大国のシャリム国から、シャリム王の弟君、サホン伯爵をお迎えしたのだけれど・・・私は結婚した経験がないので夫婦の間のことは分かりません。でも、アザリアとサホン様は長く子供もなく、アザリアが妹のように可愛がっていた侍女のエミルと、サホン様の間を取り持った。アザリア自らね。アザリアの父王の代からこの国では一夫一婦制になったけれど、シャリム国やミシュナ国では今でも沢山の妻や愛妾は珍しくありません」
アザンは、王族の中でも、一歩身を引いて陰に隠れるように大人しいサミュンの姿を思った。
「私はアザリアと共に、魔術師達に会ったのです。でも、その時の記憶は魔術師達によって抜き去られてしまったので、死者の国のことは勿論、殆ど覚えていません。ただ、覚えているのは二つ、アザリアが私の命乞いをしたこと。自分を育てた私の母、乳母の元へ私を帰すために。彼女は私に言ったわ。「私達は家族同然のように育った。でも、家族でさえ、人間個人の宿命から救うことは出来ない」と。アザリアにとって、生きることは義務でしかなかった。アザリアにとって、死者の国は安らかだったのでしょう。アザリアは自らの意思でこの世に戻ってこなかったと言う魔術師の言葉を覚えています。アザリアを現世に繋ぎ止めるものはなかった。私はルージェンにもそれを感じるのです。あの子も現世に執着していない。死者の国から帰ってこられないのではないかと思うのですよ。アザン」
その時、マージルが裏口から街へ出て行く物音がした。