三日目の夕刻、二人はモルドーの城下町へ戻った。フリムと別れ、ルージェンはサホン卿に会うために、アザリア邸へ向かった。

 従僕に案内されて二階の部屋に入ると、サホンと妻のエミルはシャリムの医学書の翻訳作業の途中で、慌てて広いテーブルの上を片付け始めた。彼のテーブルは、本と紙が散乱していて、その紙の順番は、清書をしている妻のエミルにしか分からない状態なのだ。

 室内へ入ると、浅黒い肌で細身のサホン卿が立ち上がり、穏やかな笑みでルージェンに座るように招いた。いつも翻訳の手伝いをするサミュンはまだ帰っていない。今頃、城でフリムと会っているのかも知れない。

 サホン卿は、すでにシャリム国王からサミュンの留学を許可する書状が届いたと言った。

 ルージェンは、サミュンの護衛として、また、フリム自身の才能と見識を伸ばすためにも、一緒に彼をシャリム国に留学させてもらいたいと願い出た。

 「サミュンにつきまとっているとかいう男の子だね。いいだろう、しかし」サホンは、悪戯っぽい黒い大きな瞳を、隣で茶の用意をしているエミルに向けて言った。「サミュンもその子にまんざらではないようだ。勉強の妨げにならないように、しかっりと釘を刺さないとね」エミルも夫の言葉に微笑んでいる。

 「ところでルージェン、魔女と魔術師は交信したのかね」

 「はい、ナイジリの指定された宿で待つようにという返事でした」

 「彼らがどこまで信用できる連中なのか、私には理解出来ないよ」

 「でもサホン卿、魔術師達はこの僧院にも出入りしていたではありませんか。それに、マージルだって、彼女の腕は確かです」

 「ルージェン、何故ルゴス卿と魔術師達が対立したか、君も聞いているだろう」

 「ルゴス卿が魔術を戦争に、使おうとしたからだと・・・魔術師の中には、マサラという少女がいて、彼女はマインドコントロールが出来るとか。それが出来れば、ミシュナ国と戦争になっても」

 「ルゴス卿のそんな御伽噺、私は信じていない」サホン卿の言葉は、初めて聞く意外なものだった。

 「サホン卿、アザリア伯母は、魔術師達の導きによって死者の国へ行かれたのですよ」

 ルージェンが抗議すると、エミルが、夫の前にカップを置いてから、彼の肩に宥めるように手を置いた。

 「そうだ、確かにルージェン、私だって死者の国へは行ったことがないのだから、これから旅立つ君にとやかく言ってはいけないね」

 エミルがとりなすように言った。

 「ルージェン、気にしないで。サホン様の故国シャリムでは、魔術とか迷信は学問の進歩を妨げるものだとされているのです。だから、サホン様には疑念があるだけ」

 「アザリアは私のいうことなど聞こうともしなかった。魔術師なんて、私は今でも信用していない」

 「そんな、サホン卿、アザリア伯母様の死は無駄だったのですか」

 「アザリアはただ、生きていることから逃げたかっただけだ」

 「サホン様、やめてください」エミルが悲しい顔で言った。「ルージェン、魔術師達は知恵のある方達です。そんな方達が害を及ぼすとは、私には考えられません。貴方自身が彼らに会って、確かめてみるといいわ」

 エミルの意見は夫のサホンとは違っていた。

 「アザリアを逝かせてしまったのには、私にも責任がある。彼女は尊敬できる女性だった。でも、自分の信念に凝り固まって、結局残された者の気持ちを考えられなかったなんて、愚かだ。私には理解出来ない。生まれてきたこと、生かされてきたことへの感謝がどうして彼女にはなかったのか。ルージェン、君は必ず帰って来なさい。君は男になりたいと言ったことがあるね。姿など関係ない。精神的な男になりなさい。君なら自分に与えられた責任を果たすことが出来るね」

 「男としての責任とは何でしょうか」

 「自分を育ててくれた人達、環境に対して与えられた恩義を返すことだと私は思う。これは私の意見だ。君には君の考えがあるだろう。さて、夕食にはフリムも呼ぼうか。エミル、城へ使いをやりなさい。シャリムに行かせる前には、フリムのご両親にも会わないといけないな。ルージェン、君もここで食べていくね?」

 サホン卿の説教を久しぶりにたんまり聞かされるのかと、彼女は覚悟した。

 「有難くご一緒させて頂きます、ですがその前に、マージルに話があるので、少し失礼致します」

 「行っておいで」ルージェンが部屋を出る後で、サホンが妻に聞いていた。

 「フリムの好物は何かな」

 「まあサホン様、わたくしが知っている筈ないじゃありませんか」

 「お前、サミュンから聞いていないのか」

 「サミュンはそんなこと、言いません」