夕食が終わった城の中庭で、エルマー国王妃パルミと二人の娘、アンシアとアンジリーカがアザン達楽師の演奏を聴いていた。王妃パルミは、アンシアと同じ黒髪を一つにまとめ、空色の瞳で楽師達の演奏を見つめている。何も喋らない時のパルミは、何を考えているのか、表情には出さない。
城で働く従者達も仕事が片付くと休みをもらって、中庭に出てきた。今夜は満月で、篝火がなくとも見えるくらい明るく暖かい夜だった。
その時、裏の門から篝火に照らされて、足早に白馬に乗った白い甲冑の男が現れた。中庭の椅子に座っていた二人の王女が立ち上がった。二人は心配そうな顔をして、走らせてきた馬がまだ少し興奮して足踏みしているのを宥める男を見つめた。パルミ王妃も男の方へ視線を向けたが、動じた様子はない。王女達は口々に叫んだ。
「ルージェン」
「何かあったのね。遅いから心配していたのよ」
ルージェンと呼ばれた男は、アザンと年の頃は変わらない。
砂色の髪を耳の上で短く刈っている。馬上で、月明かりではよく分からないが、彼の顔もパルミ王妃と同じく表情が読めなかった。ルージェンと呼ばれたその青年は言った。
「フリムと村の男が猪に咬まれた。昼に咬まれた時は薬を塗って、異常も無かったのだが、その後二人共、ひどい熱が出て咬まれた処が腫れ上がっている」
「フリムは今どこ?」
アンジリーカの表情が驚きに変わって、聞いた。
「アザリアの僧院に二人共寝かせてある。あいにく薬師が村のお産で不在だ。私が応急処置をする。手伝ってくれる者、料理長でも良い、来てくれ」
「わたくしが何をすれば良いのでございましょうか」
料理長と呼ばれた男が臆した声で聞いた。
「腫れ上がった処を切開して薬をつける」
「人を切るのでございますか」
料理長が不安そうな声を出した時、レクスが立ち上がって言った。
「どうぞ高貴な御方、ここにいるアザンを使って下さいませ。彼は我ら音楽隊の薬師でもあります。彼は魔女に育てられました。応急措置や薬草については長けております」
レクスが手で指したアザンに、ルージェンは初めて目を向けた。
アザンは長身で、痩せ過ぎていた。内気な印象の青年だった。女のように優しい面差しで、他の音楽師同様貧しい身なりをしている。
「よし、この男をしばし借りる。アザン、私の馬に乗れ」
ルージェンは、馬の背の上からアザンに向けて声を張り上げた。
「乗れとおっしゃられても」
「早く、私の前に乗れ」
近づいて行ったアザンの腕をルージェンが引っ張り上げるので、アザンは初めて馬の鐙に足を掛けることになった。
ルージェンはアザンの身体の後ろから腕を廻して、馬の手綱を引いた。馬は全速力で城門をでた。街の居酒屋や宿場の篝火が照らす薄暗い夜道を、馬は走る。乗馬は初めての経験ながら、アザンは恐怖よりも躍動感を感じた。城壁を出る頃には、ようやく闇に目が慣れてきた。城壁の外の田園地帯が開かれた道の片側は、農家の村落の灯が見えた。しばらく走ると、燃える松明が木橋を照らしていた。
川を渡ってすぐの坂道を馬は早足で登って行く。館の灯が見えて、門番が一人立っていた。馬を門に入らせると、奥に美しい館があり、左側に僧院があった。先に馬から降りたルージェンが、駆け寄って来た門番に馬の手綱を渡すと、馬上のアザンに聞いた。
「そなた、獣に咬まれた者の手当てはしたことがあるのか?」
「はい、ございます」
アザンも馬から降りて、暗い僧院の中へ入った。一階は老人が眠る寝台が左右に10台づつ置かれてあった。
「緊急を要する者はこの部屋に入れてある」
玄関から入ってすぐの部屋の扉を開けると、中には寝台が4台あった。尼僧が二人いて、それぞれ熱を下げるための手当てをしていた。
尼僧の一人にルージェンが聞いた。
「シェインはまだ戻らないのか」
「ええ、迎えにやらせた者もまだもどりません。よほどひどい難産なのでしょう」
「ロリス僧長、こちらはアザン、魔女に育てられた者らしい」
ロリスと呼ばれた三十代くらいの尼僧に言った。
「アザン、こちらはロリスだ」
寝台に横たわる男二人、ランプの灯に照らされている。熱と痛みのせいか呻いていた。
手前の診察台の上には薬液瓶が入った小瓶が並んでいる。
「さあ、始めようか」
アザンがルージェンに聞いた。
「貴方はこういうことを、したことがあるのですか?」
ランプの灯に照らされて近くで見るルージェンの瞳は、アンシアの深い海のような青や、アンジリーカの空のような瞳とは違って、灰色がかっていた。
「毎日狩をしていると、色々なことが起こる。毒蛇に咬まれたり。応急措置は私がしている」
ルージェンは寝台に寝ている二人の若者を見て言った。
「ここまで悪化した者は薬師に任せていたので、実際にはやったことがない。アザンそなたはどうだ?動物に咬まれた後、熱が出たり、傷が腫れ上がった者を見たことがあるか?」
「はい、ございます。そんな時私はこうしております」
アザンは薬瓶を見ながら言った。
「腫れている傷を切開する前に、傷に触れる物には酒でよく洗うこと、切開するナイフは蝋燭の火を通した方がいい。切開する時使う局所の痛み止めはありますか。これだな」アザンは小瓶の一つを手に取ると、続けた。「そして傷の中を充分に水でよく洗浄する。そうすると、傷の治りも早いのです。そして・・・これを傷につければいい」
アザンの処置は何回か薬師のシェインの手助けをしたことがあるルージェンも驚くほど手馴れていた。アザンの手は大きく、指も長く、美しい手をしていた。その手は器用にナイフや小瓶を操った。
「これで熱が下がるといいのですが」アザンが言うと、尼僧達が薬液に浸した湿布を傷に当て、布で保護した。
「そなたが居てくれて良かった。ロリス僧長、アザリアの館から従者を一人連れて来て、城へ手当ては無事に済んだことを知らせて欲しい」
「アザン、私からも礼を言います。助かりました」ロリスがアザンに笑顔を見せ、そう言うと、部屋を出て行った。
「そなたは魔女に育てられたらしいが、その魔女とは、どの地域に住む者だ?」
「西カリム海側の漁村で育った魔女らしいのですが、音楽師のリーダーに頼まれて、約二十年旅で国を周る音楽団員の身辺の世話、怪我、病気の時の治療を任せられていました。私はその魔女に七歳で拾われてから、一昨年までその魔女に育ててもらいました。今は、故郷の漁村で暮らしております」
アザンとルージェンが話していると、僧院の玄関の方で声がして、慌しく一人の男と尼僧が入って来た。ルージェンはその男を見ると、異国の言葉で話し始めた。アザンには理解できない異国の言葉で一折り話終わると、その男はまだ高熱が続いている患者二人の様子を見るため、二人の寝台の方へ行った。
男について来た若い尼僧がルージェンに笑顔を向けて言った。
「ミナンのお産は無事済みました。大変な難産でしたけど」
「良かった。こっちも、この男がいてくれた御蔭で、シェインがいなくとも、手当てが無事済んだ」そう言うとルージェンはアザンの方を見て「後は私とシェインで二人の様子を診ます。そなたは城への従者と共に、馬車で帰りなさい。音楽師の仲間達も待っておられる。クレア、アザンを城へ報告に行く従者の元へ送ってくれますか」
若い尼僧がルージェンからアザンに視線を移すと微笑みかけた。
「承知しました。アザン、私からもお礼を言いますわ。今夜はどうも有難う。こちらへどうぞ」
尼僧のクレアに付いていくと、玄関の外では厩から一頭の馬を引いて来た従者がいた。クレアが近づいて、従者に話すと、「馬車を用意してくるよ」
従者は再び厩へ戻って行った。
アザンはクレアに聞いた。
「先ほどの高貴な御方はどのような身分の方なのですか」
クレアが夜の闇でも判るほど白い歯を見せて笑った。
「ルージェンはこの国の王子よ。でも畏まることはないわ。ルージェンは私達の仲間でもあるの。彼は王子である身分の前に、人を癒す存在でいたいと思っているから」
先ほどの従者が馬車を出してきた。アザンは馬車で城へ帰った。自分がこの国の王子に会うとは、不思議な夜だった。
何日も身体を洗っていなくて、自分でも体臭がわかるアザンを後ろから抱えるように馬に乗り、丁寧に対応してくれた。自分とそんなに年の頃は変わらない青年だった。
城へ着くと、楽団員達は城の中庭にテントを張って、すでに休んでいた。アザンが馬車から降りると、レクスが近づいてきた。
「どうだった、アザン」
「手当ては済んだ。薬液もそろっているし、恐らく二人とも回復すると思う。だけどレクス、せっかくの城での音楽会が中止になってすまなかったな」
「いや、あの後、王妃も二人の王女も心配そうだったが、音楽会はそのまま続けるように言われて、謝礼金もたんまり戴いたよ。今夜はここに泊まるように言われた」
テントの外では、レクスの妻と子供達がカードを使って遊んでいた。
アザンは疲れていたので、早めに寝ることをレクスに告げた。そのくせ、横になったアザンの脳裏には、金糸のような髪の妖精のようにきゃしゃで美しいアンジリーカ王女のことが離れなかった。