サホン卿の部屋を退室してからルージェンは僧院へ向かった。

 子供達は食堂へ行っている時間で、幸いルージェンは見つかることもなく、三階まで上がることが出来た。

 マージルは毎朝9時から午後の5時まで、きっかり仕事を止めてしまう。仕事の後は、街に出て食事や酒を飲んだり、仲良くなった農民や町人の家でカード遊びをしたりして過ごしている。彼女が親しくしている人がケガか病気で入ってこない限り、夜まで働くことはなかった。
 しかし、手があくと煎じ薬を作ったりして、仕事ぶりは信頼できるものだった。すでに街へ出た後かもしれないと思いながら、マージルの部屋の扉を叩いた。

 マージルが扉を開いて、ルージェンを見て驚いた。

 「まあ、王子様、どうされたんですか」

 今夜のマージルは、いつもはひとつにまとめている鮮やかな赤毛を編みこんで、片耳から垂らしている。白髪混じりとはいえ、えんじ色のドレスが若々しさを感じさせた。

 「急な用事が出来て、城へ戻って来ました。でも、もう済んだので、アザンが待つナイジリへすぐ向かいます」

 「アザンは先にナイジリへ・・・。魔術師達と交信できたんですね」

 「はい」

 そう返事してルージェンは持って来た小瓶をマージルの前に差し出して見せた。西カリムの海岸の砂と小石が入っている。「これは貴方へのプレゼントです。急いで帰ってきたので、こんな物で済まないのですが。私は熱が出て、海岸へ行けなかったので、アザンに頼みました。もし、今度行く時は西カリムの波の音を近くで聞いてみたい。アザンの生まれた町で。私は、二人の妹を、意にそまぬ結婚をさせてしまいました。自分だけ好いた男と結婚するつもりはありません。でも、アザンは、私の傍に居てくれると・・・。マージル、私は、死者の国から帰って来られたら、彼と一緒になりたく思っています」

 それだけ言うとルージェンは恥ずかしくなって目を伏せた。ルージェンにとって、マージルはアザンを育ててくれた大切な人だった。彼女から祝福してもらいたかった。

 「まあ、西カリムの砂浜が懐かしくなりますよ。アザンならこんな気のきいたことはしません。有難く戴きますよ」そう言いながら、マージルは以前見たルージェンの、服は同じ男物でも、王子から娘へと変わった雰囲気を感じ取っていた。

「アザンが言っていました。父親のようによくしてくれた方で、楽団を辞めて今はナイジリの港町に居るというのは、どんな方なのですか?」

「さあ、楽団を辞めていった者は多いですからね。なんせ、長旅で馬車に揺られるのは大変身体が疲れるものですから」マージルは少し考え込んだ後言った。「おそらく、ナイジリの知り合いが居るというのは、アザンのでまかせですね。なんでそんな嘘を言ったのやら」

 城とナイジリへ続く分岐点で別れた時のアザンの寂しそうな顔をルージェンは思い出して、すぐに馬で走っていきたい衝動に駆られた。

 「あの子なら今頃町の広場で三絃を奏でながら、金儲けに励んでいますよ。どこででも生きていける子です」マージルは思いつめたルージェンの表情を見ながら続けた。「王子様、アザンの良さを理解頂けるとは、貴方様の心が綺麗な証拠だとあたしは思いますよ。あたしはね、結婚こそしなかったけど、若い頃は恋もしました。でも、恋愛ってのは、結局、自分を愛して欲しい心の方が勝るのではないでしょうか。人ってのは、愛されたり、自分を愛したり出来ないと生き辛いもんですからねぇ。王子様、アザンは大丈夫ですよ、恋愛はいつか冷めます。その時貴方様が、あの子を捨てても、あの子は一人でやっていけるでしょう。高貴な方々というのは、代わりの相手はいくらでもいるものです。アザンは、親の居ない子として育ち、7歳の時あたしが拾ったようなもんですから。一人で生きていける術はあの子に授けたつもりでございます。どうぞ、王子様、お気が変わっても、罪の意識など感じなさいませぬよう」


 

 マージルの言葉は、祝福どころか、いやみなのか、未熟な若者への諭しなのか分からない。しかも、言葉は丁寧であっても、瞳は刺すような眼差しでルージェンを見据えていた。

 この人は、自分を憎んでいるのであろうか・・・ルージェンは、マージルに怯むものを感じた。自分とは異質な者を初めて見る不安を感じた。ルージェンには、自分に悪意を持つ者に対して、言葉を返す術を知らない幼い無器用さがあった。

その不安を感じたマージルは、様子を和らげた。ルージェンが無言のまま後ずさった時、再び声をかけた。

「お優しい王子様。失礼ですが貴方様はあたしから見ると、余りに人を信じたがっているように思えます。自分の心でさえ、変わって信じられないものなのに。人は状況次第で変貌するものですよ。信念を貫ける人はめったに居ません。おまけに、信念を貫くことがいいこととも思えませんよ。だって、あたしら庶民は、国の政の、風が吹く方へ向くしか生きる手立てはありませんから。本当の所、あたしは、家族でさえ信ちゃいません」

「そんな・・・マージル、アザンも、ですか」

「もちろん、あの子も人間です。王子様、貴方様は、ルジン王がまだ生きておられた頃、疫病が流行って悪魔の仕業だと流言が国中に広まって、乱心した者達が座敷牢から引きずり出され、悪魔の手先だと虐殺されたのを、国中あちらこちらで、沢山の乱心の者達が殺されたのを、ご存知でしょう?それでルジン王が北方の暗い森に乱心の者達を収容する施設を建てなすった。悪魔の仕業なんかじゃありません。悪魔以上に残酷な人間が沢山の人を虐殺したんでしょう。あたしはそう思ったんですよ。だから、あたしは人は信じません」

「マージル、それは、アザンが私を欺くとでも・・・」

「あの子は昔から恥ずかしがりやでいて、人なつっこい子でした。それは多分、あの子の人一倍人を恋しがる寂しい心からでしょう。おそらく、あの子の弱点は、貴方様への執着心でしょうねぇ。あたしはそう思います。あたしの星の占いにも、そう出てるんです」

「私は・・・星の占いは、信じません、マージル」

続きは別のHPにて アドレスは後に記載